松陰、小瀬川での別れ

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長州藩の東端にある岩国・小瀬川。ここは陸路で旅をする長州藩士にとって、
故郷との別れの地であり、帰藩に安堵する地でもあった。

胸躍る旅路

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吉田松陰は生涯で少なくとも4度、岩国を通っている。最初は嘉永4年(1851)春、22歳のとき、長州藩主・毛利敬親の江戸参勤に随行しての旅だった。高森(現・岩国市周東町)に宿泊し、翌日には山陽道を玖珂、柱野、関戸、そして小瀬川を渡った。夢にまで見た江戸遊学に、胸躍る旅路だった。
しかし、江戸から東北へ巡遊するおりに藩の許可証を待たずに出かけ、脱藩の罪で帰国命令を受ける。萩への旅は大阪からは船により、寂しい帰藩となった。

錦帯橋見物

嘉永6年(1853)、再び江戸遊学の許しを得ると2月、船で江戸を目指す途中、岩国に立ち寄った。「錦帯橋を見た。橋の近くに諌櫃(いさめびつ)というものが置いてあった。それの掲示文がとても素晴らしかった」と、日録に記している。
諌櫃とは別名・訴訟箱(目安箱)。掲示文には、「藩政に対して不満があれば、身分を問わず訴えて欲しい」とあった。これに感心するとは、身分を問わず子弟を受け入れ、自由闊達な意見を重んじた松陰らしい。

護送での帰藩

安政元年(1854)、3度目の岩国通過は物々しい護送となった。松陰は子弟の金子重之助と共に、ペリーの黒船による密航を企てたが、失敗。罪人となっての帰藩。
10月の小瀬川を罪人の籠で渡る。重之助はすでに重い病に冒され、その日の泊地・高森では、地元医師の診察を受けている。重之助は萩へ着くと松陰の祈りも届かず、獄中で病死した。

安政の大獄

安政5年(1858)、幕府は朝廷の許可を得ずに日米修好通商条約へ調印。松陰はこれを批判して翌6年、江戸への護送が命じられた。四度目の岩国通過。小瀬川で、松陰は長州の地への決別の想いを歌に託した。

「夢路にもかへらぬ関を打ち越えて今をかぎりと渡る小瀬川」。

夢のなかでも戻れないという歌の如く、10月27日、松陰は29歳の若さで処刑された。
小瀬川にはこの歌の碑がひっそり佇み、松陰の想いを現在へ伝えている。

 

shoin_1heading_bg_green2吉田松陰歌碑(よしだしょういんかひ)
松陰は安政の大獄によって江戸に護送される際、防長惜別の地である小瀬の渡場で歌を詠んだ。
渡場があった川原のすぐ近く、歌が刻まれた石碑は建っている。
shoin_2heading_bg_green2吉田松陰東遊記念碑(よしだしょういんとうゆうきねんひ)
関戸は山陽道の本陣が置かれた宿場町。本陣跡近くには松陰が当地で詠んだ詩を刻んだ碑がある。
「美哉山河是国宝何以守之親与賢」。中国の故事を引用し、毛利家と吉川家が手を結ぶことを願った詩。松陰22歳、初の東遊だった。

 

shoin_3heading_bg_green2吉田松陰宿泊の地
(よしだしょういんしゅくはくのち)

山陽道筋で毛利本藩と岩国藩の境であることから、高森には本陣が置かれた。
松陰は本陣近くに宿泊したと伝えられている。
(写真上は松陰と縁深い岩本家があった所。写真下は江戸からの護送時に泊まった宿があった所)