岩国の志士、東沢瀉(ひがし たくしゃ)

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陽明学を学び、尊皇攘夷の情熱に突き動かされて行動し、獄に繋がれた。
その獄中にあっても、子弟に教育を施した。
まるで吉田松陰のような人物が、幕末の岩国にもいたことを知る人は少ない。
その名は東沢瀉。「西の松陰、東の沢瀉」と言われる由縁である。

江戸に学ぶ

 吉田松陰の出生から2年後の天保3年(1832)、東沢瀉は岩国藩士の家に生まれた。13歳のときには軍学書を暗記したというほどの秀才。やがては江戸で儒学の一派、陽明学を学んだ。より実践を重んじるこの学問を松陰も学んでいる。
 岩国に戻ると、藩校・養老館の教師に。そして、時代の荒波が沢瀉の人生を変える。

必死組の結成

 尊皇攘夷の先鋭を走る長州藩は幕府と衝突。第二次長州出兵(四境戦争)芸州口では岩国藩の部隊も加勢し、長州藩有利の状況で戦争は終結した。しかし国境の岩国では幕府軍の再侵攻が危惧され、緊迫した状況が続いた。なのに、岩国藩は保守派に支配され、武備は旧式のまま兵制の近代化は遅々として進まない。これを憂慮し立ち上がったのが沢瀉と同志だった。
 慶応2年(1866)11月、沢瀉は栗栖天山、南部五竹らと必死組を結成。「保守派門閥を打破し、有能な人材登用。先例旧格の破棄」を岩国藩に訴えた。
 しかし必死組の一部隊士は粗暴な行動に及ぶと、その責を問われて沢瀉と天山は柱島(岩国市)へ流刑となった。

獄中で学び師となる

流刑の絶望にあって、沢瀉は書物に没入した。「学問が最も進んだのは獄中での勉強であった」と後に述べている。やがて島内の若者が沢瀉に学ぶようになり、島外から訪ねて学ぶ者まであった。
 明治2年(1869)、精義隊(必死組から改名)のその後の活躍が認められ沢瀉は赦されると、保津(岩国市)の海辺に住んだ。そして評判を聞きつけた者が集うようになり、私塾・沢瀉塾を開いた。
 それから14年間、人材育成に尽力した。全盛期には五つの学舎が立ち並び、たくさんの学生が寄宿して学んでいたといわれる。松陰の兄・杉梅太郎(民治)も教えを請うたと伝えられる。
 松陰は29歳で散ったが、沢瀉は幕末を生き抜くと60歳の人生を全うした。望まれても政治の表舞台には立とうとせず、新しい時代を担う人材の育成に尽くした。