月性(清狂)
(げっしょう、せいきょう) 文化14年(1817)、遠崎(現・柳井市大畠)の妙円寺(浄土真宗西本願寺派)に生まれ、九州、江戸に学び海防策、倒幕論を各地で唱えた。その思想は吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作ら … 続きを読む
(げっしょう、せいきょう) 文化14年(1817)、遠崎(現・柳井市大畠)の妙円寺(浄土真宗西本願寺派)に生まれ、九州、江戸に学び海防策、倒幕論を各地で唱えた。その思想は吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作ら … 続きを読む
(おだむら いのすけ・ぶんすけ、かとりもとひこ) 伊之助は吉田松陰の妹・寿と結婚。 松陰亡き後は萩藩主・毛利敬親の側近として外交を担当。 岩国藩へ訪問し、藩主・吉川経幹へ協力を求めるなど、萩本藩と岩国 … 続きを読む
長州藩の第13代藩主。若い才能を庇護し、有能な家臣を登用。困窮する長州藩を盛りたてた。 下級武士の子で年下の吉田松陰から学んだという逸話がこれを裏付ける。 家臣に「うん、そうせい」と返答することが多く … 続きを読む
藩主の英断 新たな時代の幕開け、明治4年(1871)、岩国藩は人材育成の重要性から、藩校養老館の精神を引き継ぐ藩立岩国学校を開設した。小学、中学に加え語学、女学、医学を備える先駆的な体制だった。しか … 続きを読む
大河ドラマで人気を博した「篤姫」。 実は彼女も、鹿児島から江戸への道中、錦帯橋見物を所望したらしい。 嘉永6年(1853)9月11日の「御用所日記」には、このときのやりとりが記録されている。 強行突破 … 続きを読む
四境戦争が休戦となってもなお国境、岩国の緊張は続いた。 そして、少年たちに悲劇は起きた。 少年たちの訓練 第二次長州出兵(四境戦争)が休戦となった後の慶応2年(1866)11月18日、あと1年ほどで … 続きを読む
陽明学を学び、尊皇攘夷の情熱に突き動かされて行動し、獄に繋がれた。 その獄中にあっても、子弟に教育を施した。 まるで吉田松陰のような人物が、幕末の岩国にもいたことを知る人は少ない。 その名は東沢瀉。「 … 続きを読む
柱島(岩国市)に生まれ、月性、松陰に学び、その才は高く評価された。 奇兵隊総督になったのも、その才と人望によるもの。しかし・・・ 晋作との対立、処刑、復権運動の顛末。その悲劇の真相とは? 柱島に生まれ … 続きを読む
明治維新を成した長州藩の輝かしい活躍の陰で、岩国は長州藩の危機を救った。 それは家格の復活を遂げたい吉川家再興の物語でもある。 家格の問題 幕末から遡ることおよそ250年、慶長5年(1600)の関ヶ原 … 続きを読む
激情家で実践派の弟と、温和で慎重派の兄。この二人は大変仲が良かったという。 弟の維新の志が成就した後、兄は民の暮らしに役立つ数々の仕事を成した。 山代(岩国市北部・本郷・錦・美川・美和 等)は、その知 … 続きを読む
外国に開国を迫られ揺れる幕府と諸藩。そのなかにあって長州藩は尊皇攘夷運動の先頭に立ち、ついには明治維新を成し遂げます。その眩い偉業の陰には、岩国ゆかりの志士たちの活躍がありました。 第一次長州出兵の戦 … 続きを読む
長州藩の東端にある岩国・小瀬川。ここは陸路で旅をする長州藩士にとって、 故郷との別れの地であり、帰藩に安堵する地でもあった。 胸躍る旅路 吉田松陰は生涯で少なくとも4度、岩国を通っている。最初は嘉永4 … 続きを読む
長州に迫る危機 文政12年(1829)9月3日、第11代岩国藩主・吉川経章の子として生まれた経幹は、弘化元年(1844)、16歳で家督を相続した。その3年後の弘化4年(1847)には将来を見据え、文教 … 続きを読む