四境戦争が休戦となってもなお国境、岩国の緊張は続いた。
そして、少年たちに悲劇は起きた。
少年たちの訓練
第二次長州出兵(四境戦争)が休戦となった後の慶応2年(1866)11月18日、あと1年ほどで明治を迎えようとしていた頃の出来事。
休戦とは言え、いつまた幕府軍たちが攻めてくるかも知れない。国境の地、岩国にはまだ、そんな緊張が張り詰めていた。
岩国藩士の子弟、14歳から8歳の三十数人(藩校素読寮生)は、火攻めの遊戯(訓練)をするため、岩国山の伊勢ヶ岡に登った。そこには敵を迎え撃つための藩の砦が築かれている。
丘に着くと、さっそく少年たちは火を着けるための茅を集めた。そして、最年少だった8歳の山県幸輔に刀を預けた。もちろん幸輔も訓練に参加したかっただろう。しかし、この訓練には幼すぎる。武士の魂である刀の番をすることも大切な役割だと諭された。
煽られた炎
茅に火が着けられて、いよいよ訓練が始まった。そして、誰も想像しなかった展開に…。突然吹いた風にあおられて、火が四方に燃え移ってしまったのだ。藩の砦に燃え移っては一大事。少年たちは必死で消火しようとしたが、燃え盛る炎は少年たちをも飲み込んだ。
幸いにも砦への類焼は避けることができた。しかし、その代償は余りにも大きく、16名の少年の命が奪われた。そのなかに、8歳の幸輔も…。その幼い身体で仲間の魂も同然の刀を大事に抱いたまま、伏して焼死していた。
生き残った年長者のうち4名は、自刃によって責任をとろうとしたが、大人たちの慰めと説得により、思いとどまったという。
火災から50周年に当たる大正4年(1915)、素読寮の同窓生有志によってこの史実は石碑に刻まれ、幸輔らは永遠になった。