激情家で実践派の弟と、温和で慎重派の兄。この二人は大変仲が良かったという。
弟の維新の志が成就した後、兄は民の暮らしに役立つ数々の仕事を成した。
山代(岩国市北部・本郷・錦・美川・美和 等)は、その知られざる偉業を語り継ぐ里。
吉田松陰の2歳年上の兄・杉梅太郎(民治)は、過激な言動と行動に及んだ松陰とは違い、生涯を通じて穏健な人物だったと評される。松陰が獄中にあったとき、松陰から父母への不孝を申し訳なく思う文を受けた民治は、初心を貫き親への孝は案ずるなと弟を励ました。そして、600を越える書物を弟に差し入れた。あの松陰の生き様は、この兄の存在なくしては成し得なかっただろう。
29歳で散った松陰亡き後、民治は藩の役人として庶民の暮らしに貢献する業績を各地で残している。そのなかの一つに長州藩・山代(やましろ・岩国市北部)での水路造成事業がある。
明治3年から9年まで、山代最後の代官(区長)として、民治は本郷(岩国市本郷町)で任に当たった。紙の産地として萩本藩の財政を支えてきたこの地だが、重い税率に喘ぎ、水利にも恵まれず田畑は痩せ、庶民の暮らしは困窮していた。
民治は人々の嘆願を聞き入れると、地元戸長の三分一健作らと共に水路を造り、田畑を開拓、生活・防火用水を確保し、人々の暮らしは特段に向上した。
また、民治を訪ねて山代へ来た若い医者・松浦幸民(後に澄川姓)に、この地の医療を担うことを勧め、地域医療にも貢献した。
明治43年(1910)、民治は84歳で永眠した。国を変える大仕事に関わり若くして逝った松陰。民治はその3倍近くを生き、多くの庶民を直接助ける人生を全うした。そして現在も、民治が整備した水路は地域農業と人々の暮らしに役立っている。
杉 梅太郎(民治) (すぎうめたろう・みんじ)
吉田松陰の実兄。松陰を物心両面で支えた。明治維新期には代官として各地で任に当たり、その優れた手腕から「民治」の名を藩主から受ける。山代では水路造成・田畑開拓により人々の暮らしに貢献。その後、松下村塾を再興した。享年84歳。