長州に迫る危機
文政12年(1829)9月3日、第11代岩国藩主・吉川経章の子として生まれた経幹は、弘化元年(1844)、16歳で家督を相続した。その3年後の弘化4年(1847)には将来を見据え、文教の重要性から藩校養老館を建てている。(岩国藩は公的には、幕末まで藩として認められていなかったが、当初より行政・徴税・治安を独自に行っており、事実上の自治権を有していたことから、「岩国藩」として表記を統一した。)
尊皇攘夷の機運が高まるなか、文久3年(1863)5月10日、長州藩は先陣を切って、下関にて外国商船を砲撃。そして、元治元年(1864)には、禁門の変によって長州征討の勅命が下されると、幕府軍を中心とする征長軍による長州藩への攻撃が決行されようとしていた。
征長軍の規模はおよそ15万。これに対して、長州藩は外国との戦いなどで疲弊し、武備もまだ旧式で勝ち目はなかった。そこで、長州藩主・毛利敬親は、朝廷、幕府との交渉を岩国の経幹(当時35歳)に依頼した。
長州を守るため
経幹は極秘に岩国を訪れた西郷隆盛らと対面。長州藩三家老の切腹と敬親の謝罪状の提出などを条件に、長州への攻撃を延期することを請うた。
そのころ長州藩は、二つの派閥の間で揺れ動いていた。幕府に一意に恭順しようとする保守派と、幕府恭順の姿勢を見せながらも来る戦いに備えて武備を急ごうとする革新派である。この二派のせめぎ合いのなかで、経幹は征長延期の条件履行を何よりも急がせたのだった。
こうして、条件が履行されると経幹は、自ら征長総督府が置かれた敵地・広島へ赴き嘆願。ついに、征長軍は撤兵し、交戦の無いままに第一次長州出兵は終結に至った。
そのときのことが歌として残されている。
「神か仏か岩国様は扇子一つで槍の中」。
征長軍の本拠地へ丸腰で乗り込み交渉をした経幹を、人々は敬い、後世へ伝えた。
明治の幕開け
経幹の働きによって、長州は焦土の危機から救われたのである。もし、第一次長州出兵において征長軍による総攻撃が決行されていたならば、その後の薩長同盟の締結もされず、大政奉還や王政復古も成しえず、明治という時代を迎えることは無かったであろう。
また、慶応3年(1867)の経幹の死(享年37歳)が明治2年(1869)まで公表されることが無かったのは、幕末の激動の中、毛利宗家存続のために奔走した経幹の働きから、吉川家かねてよりの悲願であった城主格となる名誉を経幹へ与えたかったという敬親の思いがあったからかもしれない。
長州藩の第13代藩主。若い才能を庇護し、有能な家臣を登用。困窮する長州藩を盛りたてた。下級武士の子で年下の吉田松陰から学んだという逸話がこれを裏付ける。家臣に「うん、そうせい」と返答することが多く、「そうせい候」とも呼ばれたが、重要な決断は自ら下したとされる。
薩摩藩の下級武士の長男として生まれたが、藩主・島津斉彬の目にとまり仕えた。禁門の変では薩摩兵を派遣し長州勢を撃退。第一次長州征討では征長軍参謀として岩国で吉川経幹との交渉に臨んだ。その後の薩長同盟、第二次長州征討、そして明治政府の政治を担った。「維新の三傑」とされる。
岩国藩は長州藩の東端に位置し、第一次長州征討の終結、第二次長州征討(四境戦争)での攻防などで重要な働きをしています。
この偉業を地域に残る遺跡の紹介と共に伝える冊子です。吉川経幹、赤祢武人、東沢寫等の岩国の人物や、吉田松陰とその兄・杉民治、楫取素彦等との縁を紹介しています。