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吉川史料館
吉川史料館(昌明館) 国宝【太刀 銘為次(狐ヶ崎)】 国指定 重要文化財 書跡【吉川元春筆 太平記】 国指定 重要文化財 書跡【吉川家文書】他 平成7(1995)年11月に開館。 始祖より800年の歴 Read more →
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岩国徴古館
吉川報效会が昭和17(1942)年9月に起工し、終戦直前の昭和20(1945)年3月に竣工。 戦時下に、建設、運営が行われた博物館。昭和26(1951)年、岩国市に寄贈されました。 建築工学、音響学で Read more →
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吉川家墓所(きっかわけぼしょ)
岩国吉川(きっかわ)家初代広家(ひろいえ)から、6代経永(つねなが)を除く12代経幹(つねまさ)までの当主及び一族の墓が、51基立ち並んでいます。 常に濃い緑に囲まれた墓所は、静けさに包まれた特別な空 Read more →
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岩国学校教育資料館(いわくにがっこうきょういくしりょうかん)
岩国学校は、明治3(1870)年に岩国2代藩主吉川経健(きっかわつねたけ)が藩の青少年を教育するため学制の大改革を行い、旧兵学校と文学校を公中学・公小学に組織を改めて現在地近くに新築したもので、翌明治 Read more →
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清泰院 (せいたいいん)
元治元(1864)年、禁門の変の首謀者として岩国12代藩主吉川経幹(きっかわつねまさ)は、11月に国司親相(くにしちかすけ)、益田親施(ますだちかのぶ)、福原越後(ふくはらえちご)の三家老に切腹を命じ Read more →
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吉田松陰宿泊の地 (よしだしょういんしゅくはくのち)
山陽道筋で毛利本藩と岩国藩の境であることから、岩国市の高森に本陣が置かれました。 吉田松陰は本陣近くに宿泊したと伝えられています(写真左は江戸からの護送時に泊まった宿があった所。写真右は松陰と縁深い岩 Read more →
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吉田松陰東遊記念碑 (よしだしょういんとうゆうきねんひ)
関戸は山陽道の本陣が置かれた宿場町。 本陣跡近くには松陰が当地で詠んだ詩を刻んだ碑があります。 「美哉山河是国宝何以守之親与賢」。 これは、中国の故事を引用し、毛利家と吉川家が手を結ぶことを願った詩と Read more →
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吉田松陰歌碑(よしだしょういんかひ)
松陰は安政の大獄によって江戸に護送される際、 防長惜別の地である小瀬の渡場で歌を詠んだといわれています。 渡場があった川原のすぐ近にく、歌が刻まれた石碑が建ちます。 【所在地】〒741-0091 山口 Read more →
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神田原開拓碑(こうだはらかいたくひ)
代官(区長)杉民治(すぎみんじ)と戸長等による開拓事業を後世へ伝える明治前期建立の碑。 他に岡ノ寮、大迫、八場の4ヶ所にあります。 【所在地】〒740-0602 山口県岩国市本郷町本郷神田 Read more →
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杉民治(すぎみんじ)が整備した水路
本郷町の古い町並みにある水路は杉民治が整備したものです。 今も清らかな山水が流れていおり、近隣の田畑へ水を供給しています。 【所在地】〒740-0602 山口県岩国市本郷町本郷神田 Read more →
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東林寺(とうりんじ)
元治元(1864)年春、吉川経幹(きっかわつねまさ)は国境の魚切(現岩国市美和町)を訪れ、飢饉の惨状を目撃します。 経幹はその復興のため撫育役場を東林寺に設置し、国固めのため坂上組を編成させました。 Read more →
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新港(しんみなと)
岩国藩の海の玄関。 第一次長州出兵の際、長州藩の処置について話し合うため西郷隆盛らがこの港から上陸しました。 また、第二次長州出兵の際には、幕府の訊問使である永井主水や随行した新撰組・近藤勇らとの交渉 Read more →
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藩校養老館跡(はんこうようろうかんあと)
弘化4(1847)年、岩国12代領主・初代藩主の吉川経幹(きっかわつねまさ)により創建。 文武併置、仕事や環境により出勤や入校を考慮され、考試制度を導入。 幕末岩国の志士を育てました。 慶応2(186 Read more →
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仙鳥館(せんちょうかん)
始めは仙鳥屋形と称し、元禄11(1698)年、岩国5代領主の吉川広逵(きっかわひろみち)幼時の居所として建てられ、以降は代々藩主幼時の居所に充てられました。 12代領主経幹(つねまさ)、13代領主経健 Read more →
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赤禰武人墓所(あかねたけとぼしょ)
柱島の西栄寺に赤禰武人は眠っています。 武人は長府藩士と共に薩長盟約の交渉にあたりましたが、その中での調停行為が二重スパイ行為として疑われたことで、長州藩によって捕えられ元治2(1866)年に処刑され Read more →
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赤禰武人生誕の地(あかねたけとせいたんのち)
赤禰武人は天保9(1838)年、柱島の医者の長男として生誕。 師の梅田雲濱(うめだうんぴん)が安政の大獄で投獄されたとき、その救出策を吉田松陰から授かりますが、実行に至らず。 松陰は武人の才能を大いに Read more →
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通化寺(つうけいじ)
慶応元(1865)年より、幕府軍による征長に備え、東境の守りの要として遊撃隊の本陣がおかれました。 境内には、高杉晋作遊撃隊激励の詩の石碑などがあります。 また、庭は雪舟作と伝えられます。 【所在地】 Read more →
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国穏寺(こくおんじ)
山代神威隊の屯所が置かれた場所です。 高杉晋作の決起によって藩政が武備恭順に変わり、藩内で諸隊が結成されました。 山代では神官による諸隊を結成。 その一つ神威隊は芸州口の戦いで幕軍を退ける活躍をしまし Read more →
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三士誠忠の碑(さんしせいちゅうのひ)
明治25(1892)年に旧岩国藩公と藩の有志により吉香神社内に建てられた、岩国三士(栗栖天山(くりすてんざん)・南部五竹(なんぶごちく)・東沢瀉(ひがしたくしゃ))の活躍を伝える碑です。 天山は沢瀉と Read more →
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沢瀉塾の跡地(たくしゃじゅくのあとち)
岩国三士の一人、東沢瀉(ひがしたくしゃ)が後進の指導のために開いた塾の跡地です。 現在、跡地には記念館が建てられ、当時の学舎などの位置図が掲示されています。 かつては5つの学舎や講堂、沢瀉の自宅が立ち Read more →
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籌勝院(ちゅうしょういん)
長州軍は第二次征長軍からの攻撃に備え、遊撃隊を主力として小瀬村に駐屯させました。その本陣がおかれた場所が籌勝院です。 芸州口の戦いでは、彦根藩を中心とする征長軍に対し大勝しました。境内にはその戦いで戦 Read more →
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妙覚院(みょうかくいん)
南部五竹(なんぶごちく)が斬首された場所。 五竹は東沢瀉(ひがしたくしゃ)、栗栖天山(くりすてんざん)と並び三士と称されます。 沢瀉、天山が柱島に流罪になった時、沢瀉の救出と奇兵隊への呼応を諮るが未然 Read more →
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西照寺(さいしょうじ)
第二次長州出兵のときには、僧侶もまた隊を組んで戦っています。 西照寺は山代の僧侶により編成された偕行団の屯所が置かれた場所です。 階行団は歩兵部隊と大砲部隊からなり、芸州で幕府軍と戦闘し、撃退していま Read more →
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福城寺(ふくじょうじ)
第二次長州出兵の際、藩主夫人や古文書類の避難場所となりました。 吉川経幹は征長軍を岩国城下で迎え撃つ覚悟であったと言われ、夫人や古文書類を南河内にある福城寺に避難させていることからも経幹の覚悟がうかが Read more →
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普済寺(ふさいじ)
陸軍元帥長谷川好道(はせがわよしみち)の父で、幕末には一隊を組織し維新の勲功者として顕彰された長谷川藤次郎(はせがわとうじろう)の墓があります。 また、「岩国名物、錦帯橋と宇野金太郎」と称された剣豪の Read more →
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城山(しろやま)
第二次長州出兵の際、万一岩国の城下で戦闘になった時に備え、 城山山頂には陣屋が築かれました。 万一の場合、城を枕に決死の覚悟で抗戦し、萩本藩の援軍を待つ作戦だったとされています。 【所在地】〒740- Read more →
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昌明館(しょうめいかん)
寛政5(1793)年6月に岩国7代領主吉川経倫(きっかわつねとも)の隠居所として建造。 廃藩置県の際、岩国県庁が置かれ、岩国の政治の拠点となりました。 現在は、18世紀末頃の建築様式を留めた長屋二棟門 Read more →
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群児招魂碑(ぐんじしょうこんひ)
【所在地】〒741-0062 山口県岩国市岩国5丁目2 Read more →
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小瀬砲台跡(おぜほうだいあと)
小瀬川をはさんで、安芸国(現広島県)との国境地帯となる小瀬には、防御のため、多くの砲台が築かれました。 また、岩国へ入る山陽道の関門周辺には、防御のための大きな柵や隠れて射撃するための隠 Read more →