岩国城と錦帯橋
錦帯橋はなぜできたのか。
錦帯橋はどのような歴史をたどってきたのか。
世界にも稀な木造アーチ橋の真の素晴らしさは、その美観や精巧さだけではなく、建築の由来、300年前から代々続く技術の伝承にも見いだせます。
吉川氏の藩政と岩国城
岩国初代領主の吉川広家(きっかわひろいえ)が造った岩国城は、戦国時代末期の築城でありながら、中世的な要塞としての性格が強い山城でした。
毛利軍学の基本『毛利の高陣』思想によるものとされ、南蛮作りとともに全国的にも珍しい趣の城です。
しかし、慶長13(1608)年の築城からわずか8年後、元和元(1615)年6月、徳川幕府の一国一城令により取り壊しとなりました。
吉川は江戸に藩邸を持ち三万七千石の領を持ちながら大名と認められず、以後は江戸末期まで、毛利支藩の吉川岩国領として統治していくこととなります。(岩国藩は公的には、幕末まで藩として認められていなかったが、当初より行政・徴税・治安を独自に行っており、事実上の自治権を有していたことから、「岩国藩」として表記を統一した。)
この間、領政の方針として文武両面の人材育成、文化の向上に努め、なお2000余町歩の大干拓を行い、産業の奨励と勤倹貯蓄の美風に勤めました。そのため、支藩でありながら学問や武芸の水準は高く、山陽街道の中でも特異な領として知られています。
[元朝登城図(全体)]
吉川氏の居館は、現在の吉香(きっこう)神社境内にあたる場所にあり、岩国藩政府の役所が置かれていました。
明治元(1868)年、吉川氏は念願の城主格となりましたが、明治4(1871)年7月に廃藩置県の制度施行で藩が廃止され、岩国県の県庁となりました。
翌年には山口県に統合され、城趾に旧藩主を祀る吉香神社が移されました。
(部分拡大)
岩国徴古館前の石垣跡が、吉川氏の居館(旧城趾)大手門にあたります。入口に展示してある元朝登城図(模写)には、明治初年の元旦登城風景が描かれています。供を連れた武士たちが行列を作って藩主へ年始の挨拶に向かう様子がユーモラスといえます。
岩国文化の開祖 吉川広嘉
吉川広嘉
吉川広家から数えて3代目、広家の孫が吉川広嘉(ひろよし)です。
元来病弱であった広嘉は、京都での病気療養の折に京文化にふれ、また学ぶところともなりました。読書に親しみ、武芸を好み、学問心と技術心を重んじる政策は、岩国文化の開祖と仰がれています。
また、干拓事業を進め、経済の強化策から藩札を発行して財政を円滑にするなど、みるべき業績は多くあります。
紙漉の様子
岩国では、山代(現在の本郷・美和)で楮(こうぞ)を生産し、錦川と小瀬川の豊かな水資源を利用して和紙を加工する製紙産業が発達していました。
岩国産の和紙は、瀬戸内海を船で運搬して京都や大阪で販売し、利益が多くあがりました。
移封当時三万石であった藩の経済力は、実質で最高十七万石といわれるほどに成長していったのです。
不落の名橋の考案
吉川広嘉の最大の業績が、錦帯橋の架橋事業です。
豊富な資金力、岩国城を8年で失った屈辱と無念、制度上は毛利支藩となっていても根底に抱く大名吉川としての自尊心、すべてが錦帯橋を創建する礎となりました。
町作りが始まった当初から、城下町を流れる清流「錦川」には、幾度も架橋がなされました。しかし、広い流域を持つ錦川の増水時の水流の激しさは想像を絶し、橋はことごとく流失。渡し船だけに頼る交通の不便と増水時の危険は大変なものでした。
藩の経済基盤を安定させた広嘉は、続いて代々の「流れない橋を架けたい」との切なる願いの実現に挑戦していきます。
橋が流されないためには、橋柱のない橋を架けるか、橋柱そのものに工夫を凝らすしかありません。まず広嘉は、甲州街道の渓谷にかかる橋柱のない橋「猿橋」に学ぼうとしますが、その構造的限界は35メートルほどで、猿橋の架かる桂川の川幅30メートルと錦川の川幅200メートルでは、技術の流用には越えられぬ壁がありました。
明の帰化僧「独立」と錦帯橋
西湖遊覧誌の挿図
この挿図に、吉川広嘉は、錦川に小島のような橋台を造り、そこに頑丈なアーチ型の橋を架ける錦帯橋の着想を得たとされています。
広嘉は、側近の中から児玉九郎右衛門を選び、架橋事業の任に当たらせました。精巧な木組み設計が何処かの技術流用であったのか、それとも岩国での新たな発案であったのかは現在も明らかにはされていません。しかし、当時の岩国藩には既に、架橋に必要な高度な石積み、木組みの築城技術が導入されていたようです。
延宝元(1673)年6月28日、土台鍬入れ式が行われ架橋工事は開始されました。その年の10月1日をもって竣工し、3ヶ月余りの短期間で完成。10月3日には既に渡り初めを行っています。
ところが、このようにして完成した橋も、わずか8ヶ月後の延宝2(1674)年の大洪水で流失してしまいました。しかし広嘉は屈せず、この流失の原因を研究し、そして土台や川底に工夫を凝らして設計を改良しました。翌年には橋の再建にとりかかり、五ヶ月を要して完成にこぎつけました。
こうして造られた二代目の名橋は、架橋技術の伝承とともに、約3世紀もの間、風雪に耐え抜きその威容を保ちました。
橋が完成して以降、しばらくは「大橋」と呼ばれ、古文書の記述も「大橋」が多い。その後、五龍橋、城門橋、龍雲橋などいろいろな呼び名がありましたが、宝永(1704〜)年間以後、文学的表現として錦帯橋と呼ばれるようになっりました。
世界的な遺産の流失と復活
不落の名橋も、近代の第二次世界大戦中には手入れが行き届かず、加えて戦後のアメリカ軍基地海上埋め立てに伴う周辺の川砂の大量採取で、川底の地形が不安定化しました。
昭和25(1950)年9月14日、岩国地方をおそった台風29号、通称「キジア台風」の激しい暴風雨により錦川が増水します。
午前9時前、市民は六尺樽に水を入れ、錦帯橋・橋上からの圧力で流失を食い止めようと努力しましたが、直後の午前9時40分、第三橋台が亀裂を生じ崩壊したため、第三・第四橋を流失。続いて第二橋台が崩壊、第二橋も流失し、276年前の石積橋台を含めて全壊となりました。
錦帯橋が岩国の象徴であるという市民の思いは非常に強く、当時の市長と議会は流失からわずか1週間で再建事業を決定します。翌昭和26(1951)年2月22日から、延べ6万9千人の労力、1億2千万円(当時)の巨費を投じての大事業が始まりました。
再建の調査に入った技術者たちは、「錦帯橋の工法は現代力学の法則に合致していて、何ら改善の余地はない」と結論付けました。それほど、錦帯橋の構造は完璧で精巧であったのです。
約2年の歳月を費やし、名橋は復元され、昭和28(1953)年1月15日、渡り初め式を行いました。
平成の架替
その後、半世紀にわたって人々を渡し続けてきた錦帯橋ですが、木造橋の宿命である腐巧による傷みがみられるようになったため、平成14〜16(2002〜2004)年に、約50年ぶりとなるいわゆる「平成の架け替え」が行われました。
この架け替えは、現錦帯橋の木造部分(橋台のぞく)を現橋の形・構造通りに原形修復し、総事業費26億円を要する大事業となり、平成16(2004)年3月20日に錦帯橋架橋工事完成式および渡初式を行いました。
この架け替え時も、最新の機器を用いた検査、コンピュータによる力学的構造の解析が行われましたが、300年前の設計が現代の建築学においても問題がないことが証明されています。
錦帯橋は、構造物としての設計が優れているだけでなく、芸術的なデザインの観点からみても、5つの反り橋が統一されたアーチで軽快な律動美を持つ形状は、独特で秀逸といわれ、周囲の環境との調和も素晴らしく、世界各地の建築学の権威からも高い評価を得ています。
平成17(2005)年9月7日の台風災害
平成17(2005)年9月7日未明、山口県東部を通過した台風14号の記録的集中豪雨※により、錦川が氾濫します。流水量の増大が高潮(満潮6日22時40分頃)と重なり、臥龍橋観測所の水位は8メートルを超過し、錦帯橋のアーチを濡らすほどとなりました。
土砂災害による流木などが、第一橋および第五橋の木製の橋脚に大量に引っかかり、その圧力で、6日23時、第一橋の橋杭組を流失。続いて7日未明に、同じ第一橋のもうひとつの橋杭組を流失。あわや第一橋が落ちるかと思われましたが、中央の橋杭組が激流に辛うじて耐え抜き、流失を免れます。
耐久検査のため翌7日から錦帯橋は一時渡橋が禁止となっていましたが、仮足場で補強工事を行い、9月23日に観光渡橋が再開されました。流失した橋杭組の材木は下流で回収され、折れた1本をのぞき、復旧に再利用されました。
しかし、この災害で錦帯橋は橋脚を失った第一橋を流失させず、他の木造部の損傷も軽微にとどまったことで、改めて300年前の設計技術の高水準を証明することにもなりました。
この台風により、錦川とその支流流域の広い地域が冠水し、美川町、川西、藤河など、2000棟以上の住宅が床上・床下浸水の被害を受けました。市内の主要道路も、国道2号線、国道187号線など複数が崩壊し、なかでも山陽自動車道の岩国インターチェンジ−玖珂インターチェンジ間の大崩落では、近隣の民家を巻き込むなどの大きな被害も出ました。
※ 羅漢山観測所降水量 472ミリメートル(平成17(2005)年9月6日)