藩主の英断
新たな時代の幕開け、明治4年(1871)、岩国藩は人材育成の重要性から、藩校養老館の精神を引き継ぐ藩立岩国学校を開設した。小学、中学に加え語学、女学、医学を備える先駆的な体制だった。しかし、問題が一つ。岩国には外国語の教師がいなかった。
そこで藩主・吉川経健は私費の家禄から経費を捻出し、現在の価値で200万円ともいわれる月給を払い、外国人教師を雇用した。
その英断が、日本の電気の父と称される藤岡市助(東芝創業者)など、岩国はもとより、国の発展をかなえる多くの人材を生むことに繋がった。
キャリアは無くとも
岩国藩が雇用した教師は英国人のスティーブンス。神戸の商社に働き、教師のキャリアのない24歳の若者。しかも14人兄弟の多くが大学に進学し、何人かは教師になったエリート家族にあって、彼は大学も出ていない。たとえ異国の地でも教師にならないかという誘いは、スティーブンスにとって人生のチャンスだった。
授業は当然、英語で行なわれたが、驚くことにそれは語学だけに留まらない。物理、地理、天文、歴史に至る全てが、英書、英語で教えられた。イマージョン・プログラムと言われる現代においても先進的な教育が行なわれた。
さらにスティーブンスはフリーメーソン(英国を本部とする友愛団体)の会員だった。その理念は自由、平等、友愛、寛容、人道。授業で生徒たちはその精神に、新鮮な気持ちで触れたと思われる。
スティーブンスが教鞭をとって1年半が過ぎたころ、廃藩置県による藩立学校の閉鎖が決まった。すると、県はスティーブンスの契約が残っていることや、生徒が英書を読みこなすほどの成果が上がっていると訴え、学校を続ける許可を特別に得るのだった。
契約満了までの2年間を勤め上げて、スティーブンスは惜しまれながら岩国を去った。
生徒たちの活躍
吉田松陰がたった2年の授業により多くの偉人を育てたのと同じように、スティーブンスもまた、たった2年で優れた人材を育てた。
離任時17名の生徒のなかからは、藤岡市助をはじめ、帝国図書館(現・国立国会図書館)初代館長となった田中稲城、中央大学を興した法律学者・渡辺安積、日本の鉄道発展に貢献した大屋権平、そして英語教育に功績を残した複数の教師たちが現れた。
岩国を去って5年後、スティーブンスは31歳の若さで病死。教え子たちの眩い活躍を見ることはなかった。しかし、病床には若き藤岡市助が見舞いに訪れている。すでに日本初のアーク灯の点灯に成功していた市助の成長ぶりに、目を細めたことだろう。