岩国藩の活躍と悲願成就

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明治維新を成した長州藩の輝かしい活躍の陰で、岩国は長州藩の危機を救った。
それは
家格の復活を遂げたい吉川家再興の物語でもある。

家格の問題

幕末から遡ることおよそ250年、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いから物語は始まる。
後の岩国藩主となる吉川家の当主・広家は、合戦の行く末を案じていた。徳川家康率いる東軍に対して、宗家である毛利が組する西軍に勝ち目はない。毛利家当主・輝元(広家の従兄)は西軍の総大将に担がれ、敗北すれば領土を失い、毛利は滅びることになるだろう。そこで広家は、事前に東軍と内通すると、密約を交わす。毛利軍は兵を動かさない。その見返りに毛利の所領安堵を約束して欲しいと。
かくして毛利軍は動かず、西軍は敗北。そして密約どおり、毛利の所領は守られるはずだった。しかし、輝元が積極的に西軍大将として働いていた証が発見されると、事態は急変する。家康はこれを許さず、毛利の所領を全て取り上げ、吉川へ周防・長門の2ヶ国を与えるという。広家は必死に、毛利家の存続を嘆願した。そしてその結果、毛利は周防・長門に減封となり、吉川は岩国の地を与えられた。
しかし、もし関ヶ原の戦いで毛利軍が戦っていたら、西軍に勝機があったのではないかと、毛利家には広家の一連の働きを良く思わない者もあった。
やがて幕藩体制が整うなか、岩国だけは支藩の格(城主格)ではなく岩国領とされ、長府・徳山・清末は支藩となった。広家のときには城主格だったものが、代の変遷と共に毛利宗家との間に距離が生まれ、他の支藩と同じ直系一門であるにも関わらず、扱いは単なる家臣になっていた。
かくして、城主格を取り戻すことは吉川家の悲願となり、江戸期を通じてその努力は続くが、なかなか実現しない。そしてようやく幕末に至り、その転機は訪れる。

ペリー来航

嘉永6年(1853)6月、日本の開国を求めるアメリカのペリーが、軍艦を率いて浦賀(神奈川県横須賀市)に来航。幕府は全国の大名へ意見を求めると共に国内の警備を命じた。お国の一大事に際し、長州藩自体も、藩全体が団結する必要に迫られる。
そして、安政3年(1856)9月、長州藩主・毛利敬親は岩国藩主・吉川経幹を萩に招き、親睦を深め、両家の距離は縮まった。さらに尊皇攘夷の機運が盛り上がるなか、文久3年(1863)2月、敬親は自ら岩国を訪れると、岩国を他の3支藩と同様に扱うと伝える。かくして、岩国は長州藩の一員として本格的に活動をすることになった。

尊皇攘夷の断行

攘夷を実行する期限と定めていた文久3年(1863)5月10日、長州藩は下関において外国商船を砲撃(下関事件)。また、三条実美などの公卿を後ろ盾に、攘夷を天皇が自ら率いることとするために、天皇の大和行幸(神武天皇陵参拝と攘夷親征の詔勅)を実現しようとした。
しかし、8月18日、会津藩や薩摩藩、中川宮などの政変により、大和行幸は延期。三条実美など七卿は参内差し止め、長州藩の堺町御門の警備解任など、尊皇攘夷を強く進めていた人々は排除された(八月十八日の政変)。これにより経幹を含めた長州勢は京都を追われ、体制を立て直すために七卿とともに長州藩へ落ち延びた。
元治元年(1864)、長州藩は事態打開のため、福原越後など三家老と諸隊を上京させた。そして7月19日、蛤御門付近で京都守護職松平容保の会津藩や薩摩藩の兵
と戦闘になる(禁門の変)。
結果、長州藩は敗退。吉田松陰の子弟で長州藩の尊皇攘夷を牽引していた久坂玄瑞(松陰の妹・文の夫)を失い、上京しようとしていた経幹や毛利元徳(敬親の養子で後の長州藩主)などは引き返すことになった。
さらに幕府は禁門への発砲を理由に長州藩を朝敵とみなし、朝廷は7月23日、長州征討の勅命を発令(第一次長州出兵)した。
朝敵とみなされては、長州藩の尊皇攘夷はもはや意味を成さなくなる。また、禁門の変で痛手を受け、下関事件以来、外国からの攻撃を受けている最中、幕府軍を中心とする大軍に今攻め込まれては、長州藩自体の存続が危うい。
そこで敬親は経幹へ、朝廷や幕府との交渉を依頼したのだった。

長州の危機を救う

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経幹は広島藩と福岡藩、幕府征長軍総督の前尾張藩主・徳川慶勝、参謀の薩摩藩士・西郷隆盛との交渉を行った。その結果、幕府に従う恭順の意志を示し、禁門の変に参加した三家老の切腹を条件に、第一次長州出兵を戦うことなく終結させることに成功した。もし、経幹によるこの働きがなければ、長州藩は倒され、後の明治維新も叶わなかっただろう。なお、三家老のうち福原越後は岩国市川西の龍護寺(現在の清泰院)で切腹している。
その後、元治元年(1864)12月15日、高杉晋作が功山寺で挙兵したことから長州藩で内乱がおき、幕府に恭順する保守派が一掃された(元治の内乱)。長州藩は、幕府に恭順する姿勢を見せながら軍事力を強化する「武備恭順」に方針転換した。
慶応元年(1865)9月21日、長州藩が軍備を整えていることを理由に、幕府は再び長州征討を発令(第二次長州出兵)する。
しかし、大義名分がないとして出兵を拒否する藩が出るなど、幕府側の編成は順調ではない。その間、長州藩は防御を整える一方、坂本竜馬などの働きにより、長年衝突していた薩摩藩と薩長盟約を締結した。
慶応2年(1866)6月7日、幕府軍艦による周防大島砲撃を皮切りに、各地で幕府征長軍と長州軍の戦闘が始まった。戦いは、大島口、芸州口、石州口、小倉口の4箇所の国境で戦闘が行われたため、山口県では四境戦争とも呼ばれる。岩国藩は芸州口で参戦。経幹は最初の総指揮を務め、長州藩の遊撃隊などと幕府軍を迎え撃ち、玖波、大野においても激戦を繰り広げた。
9月2日、長州藩が有利なまま、宮島で休戦協定が結ばれ、翌年、四境戦争は終結した。その後、大政奉還、王政復古により、明治時代が始まる。

悲願の行方

江戸幕府崩壊後の明治元年(1868)、これまでの経幹の働きが認められ、吉川家は城主格に格上げとなり、岩国は正式な藩となった。(岩国藩は公的には、幕末まで藩として認められていなかったが、当初より行政・徴税・治安を独自に行っており、事実上の自治権を有していたことから、「岩国藩」として表記を統一した。)ただし、そのわずか3年後の明治4年(1871)、廃藩置県により、岩国藩は廃止され岩国県になった。
言うまでもなく幕末の動乱は日本の歴史において、近代の幕開けという重要な位置を占めている。これの実現に当たり、岩国藩は大変重要な働きをした。敗戦の可能性が濃厚だった第一次長州出兵の戦闘を未然に防いだ。それはまるで、関ヶ原の戦いで毛利家を守ろうとした広家の働きに似ている。さらに第二次長州出兵では、芸州口の戦いを長州の勝利に導いた。
これらの活躍を通じて、関ヶ原の戦いから実に270年を隔て、吉川家は悲願だった家格問題の真の解決を果たした。
実は四境戦争が終結した翌年の慶応3年(1867)年3月20日に経幹は病死していた。しかし、その死は明治2年(1869)まで公表されなかった。
そこには、吉川家が城主格に認められたその名誉を、経幹その人へ与えたいとする、敬親の想いがあったのかもしれない。